{{tag> essay}} ====== ダメさをネタにしたい ====== ===== 概要 ===== 『このサイテーな世界の終わり』を観た。 冴えない高校生の、サイコパスの男と自暴自棄なヤリたい女のラブコメディ。 どう考えてもバッドエンドだなって感じの二人のダメさ加減がよい。 漫画にもそういうダメな人しか出てこずドロドロするジャンルってあるじゃない。 かっこいい、かわいい、人格的なヒーローとか綺麗なヒロインって感じじゃなく、まさしく我々自身のダメな部分を集めて煮占めて固めた感じの。見ていて気持ちがいいわけではないけど、そういう主人公だからこそ、伝えられる種類の情報ってあると思う。このドラマも、そういう種類かもしれない。 シーズン1はあまりおもしろくなかった。これはまだ、導入に過ぎないのだと思う。 普通より長く、普通だったらもう物語の終わりに見えるシーズン1の結末が始まりなのである。 ===== ダメなほうが好き ===== 考えてみると、そういうのに惹かれることが多い。 深夜ラジオ((伊集院光「深夜の馬鹿力」))、アニメ((さよなら絶望先生))、ブラックコメディ… 自分にダメなところがあるから共感というのもあるが、ダメな部分をさらけ出してネタにしていく強さを、みたい部分が大きいかもしれない。 そっちのほうがかっこいい。参考にしたいとよく思う。 ガチなダメさとはちょっと違う。 ガチなダメさとは、『人間失格』の感じとか、『このサイテーな世界の終わり』のどうしようもない感じだったり、園子温の描く凶悪犯の感じだ。物事を長く続けられず、何度も決心するも二転三転し、そのくせ人には大きく見せようとする。 そういうのは見てられない、クソだと思う。それでもたまに観たりするのは、たぶん一日履いた靴下を嗅ごうとしたりする心理と同じなのだと思う。どれだけヒドいかの好奇心だ。日常的にはムリ。 「いいダメさ」と「ガチなダメさ」の違いはなんだろうか。 ダメさの程度ではない。 違いは自分でダメさを認められるかどうかだと思う。 ダメさを認めた上でネタにすらしていくのがいいダメさ。自分のダメさを客観的に見てネタにできるのはまともな証拠だと思う。 逆にダメさを認められずウソをついたり、あるいは過度に自信がなく自分を責めるのがガチなダメさ。 ユーモアがあるか、とも言いかえられる。自分の状態を客観的に見て、何かにたとえて人を笑わせるのは賢さと強さを表す。 悲劇的になるか、ネタになるかは紙一重だ。捉え方ひとつだ。