{{tag> essay}} ====== ダーティーな宇宙SF ====== 実写に比べてアニメは、表現のバリエーションが多い。 現実世界の制約がないからだ。 だから、国や文化によって全く異なる描き方や流行があっても不思議ではない。 ときに実験的な人(宮崎駿とか?)の取り組みで、新たな位置づけや、文化が生まれて変化することもあるだろう。 だからたった10年前なのに耐え難いほど古臭い、なんてよくある。実写映画やドラマはそこまでは古くなるのが早くないと思う。 ===== 汚い宇宙SF ===== 『ファイナル・スペース』はアメリカのアニメシリーズだ。 宇宙刑に処され、孤独に宇宙船のメンテナンスに従事している主人公が、星のカービィ似の生命体と出会うことから始まる。 ここだけ聞くと宇宙、SF、友情と王道の設定のような感じがするが、そうではない。 中身は…シュール、コメディ、スプラッタだ。スポンジボブみたいな、ブサかわいいようなヘタウマな絵で、妙な踊りが披露されたり、なぜそこ?というストーリー上全く必要ではないところで何かが潰れて血が吹き出したり、文字通り血の雨が降ったり、人皮をはいだものをかぶったりする(!)。 とにかく何でもアリで予想がつかない。 物語の中で、「ああ、こいつは重要人物だから死なないだろうな」と思っていたら普通に死ぬ。 かといってストーリーが荒唐無稽かと言われればそうでもなく、風呂敷をたくさん広げて**意外と**ちゃんと畳む(予想よりは)。 一言でいうと、**ダーティーな宇宙SF**だと思う。 宇宙SFはジャンプの友情、熱血、勝利みたいに、綺麗なもの、正統派な主人公、という思い込みがあったように思える。((そんなに宇宙を舞台にしたSFを知っているわけではない。一番有名なのはスターウォーズだと思うが、これも2作くらいしか見たことがないので、もしかしたらもっとドロドロしているのかもしれない。)) ===== 想像力 ===== どうして正統的なのをイメージするんだろうか?それは宇宙に現実性がないからだと思う。 宇宙がもし身近になったら、変わるかもしれない。 これから宇宙旅行が一般人でも可能になっていくらしい((もう金さえあればいけるんだっけ?))。 いくつもの野心的な企業が取り組んでいる。国による一大事業から企業に委ねられることは、ずっと身近になる確率が高いと思う。 身近になると、人々の想像力はそこに向かう。つまり、フィクションにも反映される。 宇宙時代の学園モノ、ラブコメディ、不倫、仕事モノ、私小説とか、どんどん卑俗な方向に向かっていくだろう。 なんでもとりあえず「宇宙」をつけるようなマーケティングも目に浮かぶようだ。 同時に、かつて人々が考えていたような、スペースオペラとか、正統派なSFなんてものはないということに気づいて、「古典的な」宇宙作品は古くさく扱われるようになるかもしれない。 かつて冒険小説が書かれたり読まれたのは、未知の大陸があったからだ。現在は未知に対する偏見や価値観を保存した、化石みたいなものになっている。今新大陸モノ?を読むのは大学教授くらいだ。 将来的に過去の宇宙作品は同じように扱われるようになるだろうと思う。 『ファイナル・スペース』は後世の人々にとってもあまり違和感なく受け入れられるという意味で、時代を先取りした作品かもしれない。((面白いといっているわけではない。))宇宙時代に2020年を振り返ると、↓のようになるかもしれない。 > 2010年代、人々は宇宙にアクセスすることが難しく、希望的想像を積み重ねていたことが、当時受け入れられていた多くの作品観から理解することができます。今の混沌とした宇宙情勢を想像することはなく、きわめて楽観的だったのです。少数ですが、そうではない作品もありました。地球での人類と同じように、宇宙だってやはり卑俗だろうと描かれています。この考え方は今でこそ当たり前とされている考え方ですが、当時はそうは考えられていなかったのです。最近は超次元SFが流行していますが、このSF流行の潮流はかつての宇宙SFや、もっと遡ると大陸冒険記の繰り返しであるといえます。技術は飛躍的に進んでも、人の行動はそう変わらないのです。歴史を学ぶことにはこういう意義があるのです…。