{{tag> essay}} ====== 文章の書き方 ====== 文章の書き方で留意していることを書く。同時に気をつける必要はなく、書き直す過程で1つずつ直していく。 ===== 誰に何を書くかを明確にする ===== まず今まで、うまくいったと思えるときを考える。授業でのレポートは、ちゃんと1つの文章として成立したものを仕上げることができた。評価もいいときが多い。 でも自分がテーマを決めて書くときは、うまくまとまらないことが多い。なぜだろうか。 学校のレポートを書くときは教授の顔を思い浮かべ、あいつは知識がどれくらいあって…、ということが明確だ。 一方で自主的に書くときにはあいまいに決めずに書きがちだ。で、前提知識がどれくらいなのか、何を言いたいのか、もわからなくなってきて、文章として成立しなくなってきて途中でやめる。((未来の自分に書くときにも、振り返ってみるとわけわからないことが多い。)) ===== テーマを決める ===== 何の気なしに、何か作品を読んだり観たりしたとき、その作品の感想を書くことが多い。 感想は、あまり価値がない。面白くもない。いいお手本にしたいエッセイも、単に作品の感想であるものはない。 課題などで、問題文が決まっているとすっきり書けることが多い。 なんとなく書き始めると曖昧になって結局何が言いたかったのかわからなくなる。 最初に何を言いたいか、あるいは中心となるまだ言語化してないアイデアを書く。あとはそれについて書く。 書いてるうちに道をそれて思いつくことも多いが。別の記事に分けて書くか脚注に書く。 ===== 話すように書く ===== 書きやすさと、読みやすさは別だ。最初書くときは、上のように色々決めておくと書きやすい。そのあと、読みやすくするために少しずつ修正していく。何日後かに見ると、まったくひどいときもあるが、めげずに直していく。最終的に親しい人に見てもらってアドバイスをもらう。最初書くのと、読みやすさのための修正を分けて考えることが重要だと思う。 ポール・グラハムの記事や、文章そのものが非常に参考になる。 いい文章のためのアドバイスで特に印象深いのは、「話すように書け」ということだ。 書くときにはつい小難しい言葉を使って書きたくなる。しかし読むときはそこまで注意を払わないため、読みづらい。書くには30分かかるが、読むのは30秒だ。 なので話すように書く。((英語でも書くときは違う言葉で書きたくなるんだな。)) じっさいに音読してみる。 ===== 専門家になる ===== 書きはじめや、読みやすさ、文章について書いてきた。何より重要なのは何かの専門家になることだと思う。文章として現れているのは海に浮かぶ氷山のようなもので、知識の何%かに過ぎない。目に見える氷山を大きくするためには、見えない全体を大きくする必要がある。偉大な人たちを見てみよう。 何人かのすごいエッセイや文章を読んできて、自分でこういうことに気づいて、表現できたら素晴らしいだろうな、世界が全然違って見えるだろうな、と思ってきた。 日常的な、自分でも普段見たり聞いたりしていることが、読む後と前で全く違って見えるような文章に、出会ってきた。 * ポール・グレアム * 伊集院光((当然ラジオが本業だが、エッセイも面白い)) * 村上龍 * ナンシー関 * みうらじゅん * 週刊スモールトーク((エッセイとは少し違うかもしれない。経済や歴史についてのネット上のコラム。文章のクオリティが非常に高い。10年くらい読んできた、ほぼ唯一のサイト))https://www.benedict.co.jp * 山さ行がねが((これも、エッセイとは少し違うかもしれない。廃線や道路のレポート。克明な実地体験の記録に加え、時代背景や地理の説明、地図や文書での検証がスゴくおもしろい))http://yamaiga.com ポイントは、全員何かの専門家であるという点だ。エッセイを書くことが本業ではない((ナンシー関は、版画家かエッセイストどちらがメインと言われると微妙だけど))。 つまり、いい文章が書けるのは副産物にすぎない。何か別の専門分野があって、独自の切り口で考えられるわけだ。 いい文章を書くというより、特殊な経験や、専門的知識を身につけるほうが先だ。そういう情報があれば…最悪文章力なんていらないんである。 アウトプットは、インプットの数%しか出せない。いいアウトプットをしようと思うなら、たくさん入れるしかないと思う。書く努力というより、勉強や体験をしよう。書いて整理したくてたまらない、というような状況にしよう。 ===== 例え ===== スゴいと思える文章は、全体として批評的でも、攻撃的な印象はないことが多い。むしろ面白くて笑えたりする。 エッセイで笑えるときは、ギャグが入っているとかそういうことじゃない。客観的な観察のうえで、何かウマイ例えをする。その例えはベストなんだけど、もともとのテーマとは全く思いつかないようなもので、ユーモアが生まれる、みたいな感じ。 笑わそうというより、客観的にものごとを見て、正確に情報を伝えようとして結果的に面白さが生まれるようだ。 ===== 2つの属性 ===== 文章には、2つの属性があるように思える。 ブランド力と、情報だ。すごいエッセイを書く人たちは、その組み合わせで普通の人よりはるかに多くの人に読まれる。 そういう人たちは専門家だが、特別な情報を得ているわけでない。違いが大きいのはブランド力だ。 必要な情報だけでなく、その作者のほかの文章を見てみよう、と思わせるような何か。 この人だから読む、ということ。実際、アタリハズレがなく決まって面白いことが多い。 カバンとかのブランドと違って((ブランドは多額の宣伝費がかかる。価格が高いのは質が高いからでなく、宣伝費が高いからだ。人は質でなく、連想される未来のイメージを買っている。))、実際の質が伴うブランドである。 インターネットの有象無象の文章は情報は持っているが、ブランド力的なところがないといえる。 とはいえ、ブランドは何かに対する面的な知識という面もあり…結局のところ情報なのかもしれない。 ===== 書き直す ===== 一度で最終版を書く必要はない。し、現実的にムリだ。 何回も何回も自分で読んで、書き直すことが必要である。 プロだって書き直し、別の人に読んでもらう。いろんな作家が書き直すことが文章のコツだ、みたいなことを言っている。 セルフで見直し書き直しをやる場合、書き直しやすい媒体に書くことが重要だと思う。 wikiシステムの1つ、dokuwikiは良い選択肢だと思う。ブラウザで読み直しているときに気に入らないところがあったらすぐ編集できる(ログインしていると、各見出しに「編集する」ボタンが出る)。また、各記事がデータベース保存でなく.txtファイルなので同期するようにしておけば手元でファイルを編集できる。つまり、好きなエディタで編集できる。たくさん書きたいときはどうしてもエディタを使いたくなる。wiki記法もわかりやすい。最初は用意してあるボタンを使うこともできる。 人にアドバイスをもらうときにも、直でここがヘンとか書いてもらえるだろう。