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石船
概略
1)
折口川河口左側にある大岩。
石船伝説に出てくる岩で、田上隠岐守が難破した船が岩になったとかいう。確かに船っぽい形をしていたらしい。
潮流の変化により、現在は完全に埋まっている。2)
2020年現在、全く見えないが、少なくとも2005年くらい?には一番上の面は見えていたらしい。
阿久根市役所HPによると…
折口海岸の折口川河口左側にある大岩です。日本三大急潮に数えられ海の難所として知られる阿久根北西部にある黒之瀬戸のうち最も潮の速い梶折鼻沖で、その昔梶が折られた船が折口海岸に流れ着き、そのまま岩となったものと伝えられています。現在は潮流の変化により完全に埋まってしまっています。また、その船に積んであった大鍋が流れ着いたとされるところには鍋石があり、地名も鍋石となっています。さらに鍋のふたや餅などが流れ着いたところとされる場所もあり、地名もそれらのものに起因しているといわれています
どこにあるのか
衛星写真でそれっぽいものを見ることができる。以下地理院地図の1961~69年と現在の衛星写真を使って加工した。
写真の中心座標はすべて同じである。右下の線路や、橋など人工物はほとんど同じ位置にあるが、砂浜や砂防林、河口付近の地形は大幅に変わっていることがわかる。
付近には阿久根市教育委員会の説明の看板があり、唯一の場所のヒントになっている。3)
阿久根市の七不思議の一つで、一八四三年に薩摩藩で編纂された「三国名勝図會」
4)にもその名が記載されている。
その由来には諸説あり、「出水風土記」には、昔、丹後のある城主であった田上隠岐守が戦いに破れ、この地に逃れてきたというもので、当時の漂着物が化石となり、土地の地名として残されていると記されている。
また、「石舩神社改築記念碑」及び「阿久根村神社明細帳」によれば、神代の昔、イザナギノミコトとイザナミノミコトの第一子であるヒルコノミコト(蛭子命)が岩樟船(いわぐすぶね)に乗ってこの地に着いたもので、その船が石になったのが岩船であるとされる。
さらには「続日本紀」では、西暦七七八年の遣唐使が帰路の防風により、長島・甑島・出水の海岸に漂着したとされ、その船が化石になったというものであるが、どの説が正しいのかは定かではない。
現在は砂に覆われ、写真でしか見られない。阿久根市教育委員会
よって…
白黒写真の背景
過去の衛星写真
鳥居との位置関係
看板
見たことのある人の証言
によって、点を打った点付近の地中にあるのは間違いない。
鳥居の位置
現在は鳥居が変な方向、変な位置にあるように見える。1メートル先には林が迫っている。鳥居の横に砂浜へ通じる道があって、みんなそこを通って砂浜へ行く。全く通ることのないところだ。5)
上から見ると鳥居と建物と岩が200メートルの一直線上に見える。
高低関係は確たるものはないが、砂浜へけっこう下る。鳥居と岩船は高低差が1〜2メートルくらいあるかもしれない。海側に低くなっている。
神社は何段か階段があることを考えると、建物から見ると鳥居のなかに岩が見えたはずだと思う。
祀っているので理にかなっているように思える。
鳥居の詳細
無骨な感じのする鳥居。何製?海風で痛みやすいのか、とにかく頑丈さを意識した作りに思える。それでもボロボロだが…とくに、海側はひどい。
写真が撮れなかったが、鳥居の上部には大量の石が積んである。俗信で鳥居の上に石を載せると願いが叶う6)というのがあるらしいが、それだろう。普通の神社だと参拝者に当たって危険だし罰当たりな気がするが、ここではやりやすいのかもしれない。
なぜ木が生えっぱなしになっているか
今なぜ見えるラインがないかというと、たぶん人が通らないからだろう。
当時から川のギリギリを通っており、かつかなり高低差があり危険である。航空写真でも、現在の使われている道のあとがあるのが見える(林部分は今よりずっと短い)。低かった草木や砂防林が成長しまくって見えなくなったんだろうと思う。
石船が見えないのは石船神社として存在意義を疑われる事のような気がするが、それより石船が埋まるのが早かったのかもしれない。
採掘事業
2000年代?役所?が主導して大規模に掘り出したことがあった?が、すぐに台風で再び埋まった。写真が残ってないのは撮り忘れたからだという。えぇ…。
地質学的
いつまで見えていたか
少なくとも2000年代、上部がわずかに見えていたらしい。
article/iwafune.1596065851.txt.gz · 最終更新: 2020/07/30 08:37 by kijima