書き直す

ブログ

インターネットに文章を書き始めたのは18歳のときだ。 最初は、メチャ緊張した覚えがある。 地球上の誰でも読めるから、前に立って発表しているような感じがしたものだ。雑記ブログ前に立って話すのは苦手だ。

もちろん…1ヶ月もするとそんなことはありえないってことがわかった。 現実世界と同じく誰も気にしてない、見てない。まして単なる私的な文章に。

それがわかって、緊張感はなくなった。自然に分量は書けるようになっていった。 最初の何も出てこないのに比べれば成長した、この調子でうまくなるんじゃないかと思ったが、そうはならなかった。 うまく書けない。毎回、何をいいたいのかわからなくなってくる。破綻して、どうしようもなくなる。2000字以上のテーマは書けない。 緊張感もなく、壁に独り言をつぶやくような感じだったが、そのまま続けた。数をこなすことが重要だと思っていた。とにかく続ければ上達するだろう、と楽観的に思っていた。

閲覧者は労力の割に少なかった。 1,2年続けてたくさん書いたので、記事は400近くになった。ゲームの攻略記事がいくつか、やや当たりしたがあまりうれしくはなかった。単にゲームをした感想とメモを書いただけだったからだ。PCゲームの検索ボリュームなどたかが知れていた。

価値のある情報には、情報としての価値、うまく書く(考える)ことの2種類があるように思える。どちらも備えていれば完璧だが、どっちかだけでいい。 オレが欲しかったのは、うまく書く方だったんだと思う。作家や有名人がエッセイで当然すぎて気づきもしないようなことを明らかにして、生活に新しい視点を与えてくれるような、モヤモヤしたことがすっきりするよう、そんなことを書きたいと思っていたハズだけど、当時はそんなこと気づかなかった。 情報として価値を生むためには、文章はオマケでないといけない。例えば廃墟の冒険が好きなら、好きで好きでたまらなくていくつも行っていて、そのうちのいくつかを文章で記録した、という流れでないといけない。書くために経験できることなんてたかが知れている。 自分の望む方向もよくわからず、とにかく大雑把に、たくさん書けばうまくなるだろうと思っていた。

やったことはクズを量産することで、うまく書くこととは真逆のことだった。

量産の悪いところは、上達しないほかに、やりがいが生まれないことだ。高級店の店員が100円ショップの店員と全然違うのは給料の違いではなく、売っているものを誇れるかどうかだ。当時は間違ってるなんて思いやしなかったけど、書くたびにうまく書けないので気持ち悪い感じがしていた。自分でそう思うなら、他人にとってはもっとひどいだろう。 さらに悪いことに、情報としての価値もないので金にもほとんどならなかった、本当のゴミ記事の量産だった。

うまくやることへの圧力が全くない中では、成長しないことを身をもって証明してしまった。 何もしないよりはマシだが、やっていたことがゴミの量産というのは虚しい。

本はどうやって書かれるか

あるとき、「本の書き方」みたいなことを読んだ。 素人が思ってしまいがちなのは1日何ページずつか書くことだ。世の中にあるブログはまさにそんな思考に思える。ダラダラ書いてればいつか上達するだろう、誰かが見つけてくれて人気になるだろう、とオレも思ってた。 本の書き方の答えは、企画を出版社に持ち込むことなんだってさ。そうやってプレゼンして編集者がついて、急かされて…世の中の多くの本はそうやって書かれている、らしい。当然かもしれない。

それに比べて単なる独り言…ちょっとずつ一人で書こう…というのは自信のなさ、怠惰の言い訳だ。 出版まではいかなくても、かならず人に見て反応をもらう必要がある。現実的には家族とか友達とかに意見をもらうことになるだろう。 そうして書き直していって…修正をするうちに上達していくんだろう。何日か後に見返してみて、驚くほどひどいことは多い。

緊張感がなかったり、カンタンすぎるのは次のステップへ進むサインだ。快適だと成長してないってことだ。以前と比べて快適だと成長した感じがするが、実はその時点で成長が止まっている。常に厳しさや不安を感じていないといけない。

WEBページは検索順位で激しい競争にさらされているように見える。しかし目に見えにくく、数字でしかフィードバックをくれない。 考えるべきは目の前にいる一人の人間だ。目の前にいる人を、納得させることを考えよう。

オレがやるべきだったのは、書き直すことだ。 そりゃどうしようもない、どう直せばいいのっていう文章もあるわけだけど、そういうときに考えてやらないと、上達しない。

article/zero_audience.txt · 最終更新: 2020/08/08 12:02 by kijima