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知識

小さいときからインターネットが身近にあった。 田舎でいいところだったが現実でスゴいと思うようなことはそう多くはなかった。だがインターネットにはたまにスゴい人がいた。 もっとも印象的なのはゲームだ。

アクションゲーム1)では神のようなタイムアタック、作る系のゲーム2)ではリアルな都市や仕組みを仮想世界に再現してしまうような人。 同じゲームとは思えない、世の中は広いんだと感じた3)

そういうことができるようになりたいと思った。普通のプレイじゃだめだ、超えてやりたいと思った。

で、ゲームプレイの参考にして自分もそうなりたいと思うのだが、まったくできなかった。 面白くなくなってくる。途中で放り出す。

そのたびに、ダメな人間だなと嫌になったものだ。 地味な努力、膨大な時間が必要だが、ああいうスゴい人はたぶんなにか特殊な才能があるんだなと思った。 周りにそういうスゴい人がいればヒントをもらえたのだろうが、いなかった。

16歳くらいでゲームからは一旦離れた。 何か、良いものを作りたいと思っていくつかやってみた。受験、アフィリエイト、プログラム作り、資格、絵描き、小説…。ゲームと同様どれも続かなかった。ヘタでも楽しければいいと思うがそうでもなかった。

いま

結局いろいろやってみた結果、20歳くらいでプログラム作りに落ち着いた。プログラムやテーマ、サイト、WEBシステム、ゲーム…20個くらいのセルフなプロジェクトを独学でやった。どれもしょぼいが、少なくとも積み重ねて…何か最初に決めた目標を達成した。そして重要なことに…楽しめている。だから職を探すことも難しくなかった。

遠くから眺めてみると、長い間やろうとしていたのは何かを作りたいということだ。 私はたまたまプログラム作りを通してだが、結局学んだエッセンスは「作りかた」だ。

もっとも気づきになったのはポール・グレアムの名著『ハッカーと画家』だったと思う。プログラムを書くことは科学というよりも絵を描くことに近い。何かオリジナルのモノを作るうちに上達していく。今となっては当然に思えるが、はじめて読んだときは驚いた。

油絵が多いのは上から書き直せるからだ。スケッチでまず全体を捉えるのはそのほうが後から修正しやすいからだ。一部分を修正したり加筆することは後からできるが、全体の構成を修正することは難しい。修正しやすいようにして、何日も、何ヶ月もして同じ作品を仕上げていく。

それでGitの使い方や開発技法を学んだ。それからはじめてモノが作れるようになったように思える。そして、期間をかけて一心不乱に作るようになった。作ることが楽しいことを知った。

どうすればよかったのか

今考えると挫折する定石はこうだ。何か思い立つ → 最初はいいが、途中からヘタクソで気持ち悪い状態になり、修正もままならなくなってどうしようもなくなる → リセットして新しく真っさらな状態で始める → またごちゃごちゃしてきたらやめて新しく始める。あとで残るのは何もなくて、それに気づいて本当にやめる。

こうしたジレンマにハマる人は多いんでないかと思う。問題はスゴいことができないことではなく、それに達する手段がないことだ。 でも早くから何か積みかさねることができたなら、それはすごいことができると思う。

しかし心がけだけで積み重ねることはできない。プログラムを作ることであれば、後で変更や再利用しやすいように書き直したり、短く分割したりといった技術が必要になる。結局、専門的に学ぶことが最短の道だ。

いくつかの例を考えてみよう。

『Minecraft』で何か建築物を作ることだったら

ゲームで見えている、成し遂げたいと思うことは氷山の一角に過ぎないことが多い。 何かゲームで大きな建築物を作れる人は、たぶん紙に何でも描くことができるし、たくさん建築物を知っている。もしかしたら設計とかもできるかもしれない。 でもそれだけではじゅうぶんでない。

ブロックという限られた部品で表現しないといけない。曲線をブロックで作るには?この色とこの色の間の色を表現するには?これに最も近いのはピクセルアートの分野だ。

  • 建築知識、
  • ピクセルアート

について学ぶことが必要だ。

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結果だけ

ゲームは出口

知識

1)
『鬼武者』、『ラチェット&クランク』…
2)
『Phun』、『Minecraft』、『Simutrans』…
3)
そんな狭い世界で広いと感じること自体が田舎なんだが…今も自分の世界は狭く、たいして変わってないかもしれない。ただ、1つ違うこと…自覚はしている
article/invisible_knowledge.1592044793.txt.gz · 最終更新: 2020/06/13 19:39 by kijima